人生

やっていきましょう

1145日目

自分がある種の価値観・考えを持っていると表明した瞬間、果たして本当にそうなのか、それは正しいことなのかという疑念が同時に生まれてくる。自分は自分の好み、思想を自ら肯定して良いのか分からない。許可されなければ自分を自分で定義づけられないような根っからの奴隷である。

この苦悩を大抵の人間は理解しない。自分が肯定したものは当然肯定して良いものだと信じる方が普通だと思う。そうした人間は自己が確立しており、人間として成熟していると思う。しかし自分は、そうした肯定に対する絶対的な信頼を持ち合わせていない。

自分はこういう人間だと平然と言ってのける人間が信じられない。自分はそこまで確かな人間だと本当に思えるのか。こう考えることはおそらく的外れだ。そもそも自分がXであると言える人間はそのXに疑念を挟む必要を感じていない。Xであることが不都合ではないからだ。だから自分のXに対する同一視が本物であれ偽物であれ、自分がそうと思えるならばそれでいいというわけである。

しかし自分は、他人の顔色を窺わなければ自己を定義できない人間である。自分がゲーム好きだと思っても、例えば自分がゲーム好きであると不都合な世の中であれば、自分はゲーム好きであって良いのか悪いのかを決断できない。こうした恐怖からかつて好きだった趣味を多く手放してしまった。

いま自分は、自分が何者であるかが分からなくなっている。何かを良いと思うこと全般に反吐が出る。自分がこうだと断言すると気分が悪くなる。言葉だけが空回りして、結局自分の身に染みてこない。何をどう定義しても、自分のものとは思えない。

自分を壊し続け、自分を失った人間の人生は惨めなものだ。結局何をしても自分ではないのである。こうした悩みとは思春期でおさらばできる人種には嫉妬を抱く。願わくば自分も彼らのようになりたかった。