人生

やっていきましょう

Twitterで自殺配信動画が拡散された。スマホの固定カメラで撮影し、そのまま屋上から飛び降りた。最後には衝突音が聞こえた。

自分が興味を持ったのは周囲の反応だった。自殺がトレンド入りをしてその中を見てみると、自殺動画を見てしまった人はこれを見て心を落ち着けて、というツイートと共に面白動画が大量に流れてくる。

こうした自浄作用には関心したが、それより自殺というものがそれほどまでにショッキングなものとして扱われることに自分は驚いた。自殺は身近であり自分にも起こりうるものだから、動画を見ても拒否反応が湧いてこない。

自分は社会の人間が皆自分のように自殺を我が身のこととして捉えているのかと思っていた。しかしそこまで全体を見れば深刻ではなく、少なくとも自殺がショッキングなものとして忌避していられる余裕がある、あるいはそうした感受性の持ち主への配慮が尊重されるほどには良識が行き渡っているようである。

自分は自殺をどう考えているのか。自殺は悪ではない。自分自身と環境との作用から、自殺に至る人間は当然発生する。自殺はショッキングな出来事ではない。当然自分にも起こりうる現象だ。しかし自分は自殺をしたいわけではない。上記のような前提がある上で、自分は自殺をしない。これは痩せ我慢ではない。自分は実際自殺に無関心になりつつある。

自殺の動機として、社会の要請や道徳以上に自分の信念を優先させたいというものがある。社会に居場所がなく、自分が自分であるためには死ななければならないと考える。あるいは耐えられない現実から「自分らしさ」を守るために自殺を決行する人がいる。

しかし自分にはその優先させなければいけない自分がない。例えば自分が自殺に急接近していた時には自分を賭けて敗れた一人の男がいた。自分が積み上げてきた自分が一瞬で瓦解した時、自分は自殺こそ自分に相応しい末路だと考えるようになった。

しかし思索を重ねるうちに、自分は価値観を外部に依存し振り回されていただけの存在だということに気づいてしまった。他者からの要請に何でも応え、年下だろうが年下だろうが、身分性別が何であれ他者の要請に従っていた。こうした他者を拒絶できない自分に復讐するために自分の人生を歩み失敗した。だからそもそも自分には自分と言えるものがなく、ゆえに自分を守るために自殺をする必要がなくなったのだ。

自殺の動機として病気や痛みなどから逃れようと考えて死ぬ人間もいる。しかし自分は幸か不幸か病気にかかっていない。花粉症で苦しんでいるが、自殺をするほどではない。したがってこれも死ぬ理由としては当てはまらない。

自分は価値観のために生き死にを行う人間ではなく、己の空虚を突きつけられ克服することも改善することもできぬままただ彷徨する亡霊である。健全な精神は健全な肉体に宿るというが、自分の場合精神は死に、身体だけが生きている状態である。

この自己矛盾を自分は己の生存の義務を自覚することで回避しようとした。クソゲーを完成させていないだとか、まだ自分は経験していないことが山ほどあるだとか、自分の死は義務の放棄だということを考えていた。やはり自分は自分の欲求によって生きるよりは義務感によって生きる方が相応しいのかと落胆した。そのように十何年も生きてきたということが、自分の望まない適性を生んだということだろう。