人生

やっていきましょう

自分を大きく見せようとした試みは何であれ、後になって後悔することになる。虚勢を張れば張るほど、自分がその試みに適う人間ではないという事実が自覚される。自分は自分を概ね正しいと思っている。理解力もある方だと思い込んでいる。しかし実際にはその許容ラインが人より低い人間だというだけであり、浅い解像度をもってすべてを視野に入れたように錯覚しているにすぎない。

このような事実が自分には途方もないことのように感じられる。自分は数年経った今でさえ、自分はどうしようもないバカで改善の余地がないと思い込んでいる。確かに学習を促進させる自身の意欲も欠落し、努力の反動から来る無気力を未だに克服できないでいる。おそらく放っておけば一生このままの状態になるだろう。

自分が浅い人間だということは理解できた。さて自分はどうすればそこから立ち直ることができるだろう。真っ先に重要なのは他人と比較しないことだ。自分がこんなところで数年ふさぎ込んでいる間に、知り合いはもう遥か先にいる。自分より年下の人間がどんどん自分を追い越していく。そう考えると何もする気がなくなる(このことから自分が競争的な価値観を内化させた人間だということが伺える)。

しかしこんなことを考えることに意味はない。少なくとも自分の場合には。まず自分は本当に競争を望んでいるわけではない。大抵何らかの危機感に煽られて競争に勝たなければと思ってしまっている。これは競争や焦燥に自分が支配されてしまっている証である。こうした状態に陥っていると、例えば競争に勝てなくなった時に激しく精神が揺さぶられることになる。自分の尊厳が揺らがされると怒りが湧く。Apexのランクマッチが良い例だ。

他人を比較するのではなく、自分が何をしたいのか、何をどこまでができるのか、これだけを考える必要がある。それはなるべく具体的な視点に落とし込んだ方が良い。

例えば自分はMMORPGで3つの目標を立てた。レベルを255にすること、目標であるボスを一人で倒すこと、デイリークエストで得られる強化アイテムを最後まで強化すること。こうした具体的な目標があったからこそ、自分はこのゲームに半年費やすことができた。もしこれが知人に誘われて何となくだとか、昔やっていて面白そうだったから、という浅い動機だけだったら、1か月かそこらでやめていただろう。なぜならこの達成に至るまでの道程は地味なものが多く、必ずしも面白いものだとは言えなかったからだ。あるいは初期の段階で、もう既に280台後半のユーザーがいて、今から全サーバーで1位になるのは不可能だとか、エンドユーザーになるためには新車を買えるくらいの課金が必要などと考えていたら、長続きしなかっただろう。他人を比較せず自分の立てた目標だけに向き合ってきたからこそ、達成間近にまで来られたと思う。

こうした視点に立つことの効果は何か。自分の頭の中に地に足の着いた理解力がつくということである。自分はこのゲームに復帰してまだ半年だが、大体の常識、基礎的なことについては初心者に教えられる。ボスのギミックについても大体は自信を持って理解できていると言える。このゲームに戻るまでの自分には考えられなかったことだ。

なぜこんなことが可能なのか。それは他人の状態と比較するのではなく、自分の状態(理解度)と常に向き合ってきたからだ。自分はどこまで理解し、どこまで理解していなかったのかを考えるようにしていた。ボス戦でうまくいかない時は特にそうだった。できないときに何もできないと考えがちだが、実はできていることが山ほどある。そうした部分を頭から引き算していくと、自然と何に注意し改善しなければならないかが分かってくる。そこからは焦点を絞って試行錯誤が必要になってくる。

こうしたことを繰り返していくうちに、自分の頭の中で情報が整理されてくる。この整理された状態を【理解】と呼んで差支えないだろう。●●●について説明してくださいと言われれば、この情報を網を思い浮かべて言葉に出せばいい。何度も足を踏み入れ様々な視点から眺めたそれは確かな情報としてまとまっている。

こうした経験を経てかつての自分の理解度を思い出すと胸が苦しくなる。無意識のうちに自分を大きく見せようとしていた時の自分は、ほとんど何も分かっていなかった。情報の繋がりを意識して要点をまとめるのではなく、少ない言葉で全体を手軽に表象できるような言葉を選んでいた(だから自分の言葉はしばしば抽象的になるのだ)。こうした手軽さを手懐けたことを理解と呼んでいた。

経験は一層重要だ。物事は経験しなければ分からない。自分はかつて愚者は経験に学ぶと軽視していたが、正確には経験から「しか」学ばないことがだ。これは予測や学習にも当てはまる。何であれそれだけだと偏った見方になる。あらゆるアプローチから対象を多角的に観察することで、自分は自分の理解の根拠を多く得ることができる。自分が自分の考えに自信がないのはその労力の大半を思考に費やしているからで、自分には圧倒的に経験が足りていない。経験が足りないのは自分が失敗することへの不安、他人への不安があるからだが、そうした不安を取り除く契機になるのもまた経験なのだ。

自分はまず経験せよと言いたい。経験によって自身の頭の中に根付いた偏見に光を当て、自分の中に真っ当な感覚を取り戻したい。自分はこの何年かに(人よりは少ないが)多くの経験を経てきてきた。数年前と比べれば自身の偏見は明らかに修正されてきている。今度はもっとリスクを背負った経験をする必要がある。近いうちに実行に移すつもりだ。