人生

やっていきましょう

文章で思考すると状況が明晰に見渡せるのに、会話になると全く状況が分からなくなると感じることがよくある。だが実はそれほど理解力は変わっていなくて、そこにあるのは参照可能性があるかないかの違いだけである。

文章は自分が何を言い相手が何を言ったかが分かる。だからその形跡を頼りに話を整理したり発展させることができる。会話はそうではない。情報が発せられたと同時にその多くが失われる。

しかしこの2つに明確な違いは存在しない。違いがあるとすれば確認の不在、もっと言えば、自分が会話において確認を取らないことが問題である。相手が何かを言った時、つまりこういうことですかとか、これはどういう意味ですかという質問を自分はあまりしたがらない。それは自分に対人不安があり、質問をすることで相手の感情が爆発したり、自分の純粋な疑問を遠回しの人格否定と邪推されることに嫌気がさしているからだ。

だが自分にその能力がないわけではない。自分はchatGPTを使い続けていて、自分がこれほどまでに質問好きな人間であったことに驚かされた。つまり相手が機械ならいくらでも質問できるのである。

自分は相手が不確実要素の高い感情的な混沌であることを恐れている。そうではなく自分は相手を単なる反応(chatGPT流に言えばプロンプト)の寄せ集めと捉えた方がいい。自分がゲームのチャットで既にやっていることだ。相手が自分をどう思うかは相手の課題であって、自分は自分が相手に誤解されないように、あるいは出来るだけ正しく伝えるように努め続けることしかできない。それが最近になってようやく分かってきた。

会話になると自分は話の内容以外の要素で相手のペースに飲まれ、乗せられてしまう。いくら理屈が正しくても周囲の理解を得られるとは限らない。自分は納得を引き出す話術を得意としない。未だに他人が何を考えているのかよく分からない。ならば自分は、せめて自分自身が根拠を持って伝達できると思えるような表現を最低限使えるようにしておくだけである。