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冷笑について知り合いに話題を持ちかけて、冷笑の面白さをいくつかプレゼンしたがあまり伝わらなかった。そもそも自分も冷笑とは何か分かっていなかったように思う。そこで冷笑について今一度振り返ることにした。

冷笑の定義を辞書で調べてみても「さげすみ笑うこと」「せせら笑うこと」と簡単に説明されているだけで、いまいち意味が伝わらない。

おそらく自分が想定している冷笑とは、シニシズム(冷笑主義)やアイロニー(皮肉)のことであるように思う。

ネットで調べてきた。いくつか引用しておこう。

冷笑主義(れいしょうしゅぎ)とは、他人の動機に対する一般的な不信感を特徴とする態度のことである。冷笑主義シニシズム、皮肉屋、犬儒派冷笑系とも呼ばれる。冷笑主義者は、野心、欲望、貪欲、満足感、物質主義、目標、意見などの動機を持つ人々に対して一般的な信念や希望を抱かず、それらを虚しく、達成することのできない、究極的には無意味なものであると認識し、嘲笑や非難に値すると考えている。

冷笑主義 - Wikipedia

 

シニシズム冷笑主義)という言葉は、それを使う人によってかなり意味が異なる。そこで本稿ではとりあえず「他者の言動を利己的な利益追求という動機の語彙でつねに解釈しようとする態度」としておこう。

ネットを支配する「シニシズム」「冷笑主義」という魔物の正体(津田 正太郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

 

政治的なものやそれ以外の物を含む冷笑的言説全般を総合すると、自らは何も生み出さず、他の物を腐しているだけの人種である。

冷笑系 (れいしょうけい)とは【ピクシブ百科事典】

 

冷笑主義は「他人の動機に対する一般的な不信感を特徴とする態度」と書かれている。これはどういうことか。

例えば自分はモンスターエナジーを愛用している。モンスターエナジーを飲むことで集中力が増し、画期的なアイデアをいくつも生み出せるようになる。それから自分はモンスターエナジーを宗教的な眼差しで眺めるようになり、いつしか神託と呼ぶようになった。

これが動機である。それに対する「一般的な不信感」とはどういうことか。

例えばMonster Beverage社の競合であるRed Bull社は自分がモンスターエナジーの愛用者であることを快く思わないだろう。関係者はそのために自分の飲んでいるモンスターやその愛用者に不信感を持つかもしれない。

しかしそれは一般的ではない。一般的とは、組織の利害といった特定の属性に寄らない、広く浅い視野で見た時のことを指す。

それでいうと自分のモンスターエナジーを飲む動機は、成熟した文化圏に見合わない極めて稚拙で野蛮な宗教観に裏付けられているという点で浅はかであり、そもそもドリンク剤からアイデアを引き出したところでせいぜいゲーム開発などという無意味な自己満足に費やされるのがオチである。またそうした飲み物に頼らなければアイデアが引き出せないほど行き詰まっている人間の作品など大したものではない。これらのことは自明であるのに気づかないバカがここにいる。それがお前だ、ということである。これが冷笑主義の考え方である。

いま自分は「考え方」といった。主義はイデオロギーと言っていいかもしれないが、いずれにせよこれらはその人の考え方でしかない。

これらのシニシズムは様々な形で表現される。例えば先程のような自虐。

他人に言えば「言葉の虐待」やハラスメント行為と判定されるような、言われた人が苦しむような言葉というものがあるが、そうした種類の残酷な言葉を自分自身に向けて言うことは、それが内心で思い浮かべる言葉であれ、日記などに書くのであれ、 "言葉による自虐" であり、精神的な自虐である。

自虐 - Wikipedia

または風刺。

風刺とは、何らかの実在の対象(たとえば具体的な人物、組織、国家など)の欠点や愚かしさを暴きだす表現手法である。文章、絵画、劇、映像 等で使われる。

現実を攻撃対象としているということは、風刺は憤り(怒り)に発する(根本動機になっている)ということであり、その点で、冷静な皮肉、モラリスト風の描写、(パロディーなどの)戯作文学などとは一線を画している(つまり、異なっている)

あるいは皮肉。

「皮肉」とは、遠回しに意地悪く非難すること、期待していたものと異なる結果に終わることを意味する表現である。直接的に非難するのではなく、遠回しに悪口を言う場合に用いられることが多い。

「皮肉(ひにく)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

皮肉は行為の皮肉と状況の皮肉がある。ここでは行為に着目する。皮肉とは冷笑の手段である。風刺も同様である。上記の説明によると風刺は少なからず怒りを動機としている。皮肉や自虐はおそらく無力感と虚無感だろう。

ブラックジョークというものもある。

ブラックジョーク(英: black comedy)とは、倫理的に避けられるタブー(生死・差別・偏見・政治など)についての風刺的な描写や、ネガティブ・グロテスク・不気味な内容を含んだジョーク・コメディ・ユーモアを指す言葉である。

最も描かれているトピックの中には、死、病気、戦争、自殺、人種差別、小児性愛、強姦、悲劇などの深刻な問題がある。

ブラックジョーク - Wikipedia

これまで紹介してきたものは方向は近いが、どれも微妙に異なっている。しかしそれらを整理するにつれ、ようやく自分が何を思っていたのかが分かってきた。

自分は冷笑主義に基づくユーモアを好むということだ。その表現方法は様々だが、単に他者に対する不信感を興ずる純粋な冷笑とは異なり、自分自身の価値観に対する強い不信感をも必要とする。その意味で冷笑主義ではなく虚無主義に近いものがある(事実、単なる自己防衛のための冷笑を嫌悪しており、冷笑は同じ矛先を自分に向けてこそ初めて意味を持つと考える)。

そして自分は冷笑を悪意というより、エンターテインメントとして楽しんでいる節がある。冷笑というのは置かれた現状に対する不満という点で、極めて個人的な動機となり得る。おそらく冷笑に自尊と救いを見出している人もいる。

だがそれこそ「動機に対する一般的な不信感」を向けるべき対象ではないのか。冷笑を動機とする作品はどれも作り手の個人的な感情が見え隠れして面白くない。なぜならそれが自己保身に見えるからだ。

では一体何を楽しんでいるのか。それはいかに自他に揺さぶるクリティカルな言葉をぶつけられるか、ということである。言葉と言葉をぶつけ合い、互いの大事にしているものの価値を擦り減らす。その過程でどれもクソほどの価値がないことが分かってくる、そんな笑いを求めている。

こうした虚無主義に基づく笑いを好むのには、おそらく悲しい背景がある。冷笑の項目を整理していて思ったが、冷笑はまさに自分のかけがえのない価値観をズタズタに引き裂き、自我を拡散させた原因である。家族から、友人から、ネットの人間から、運悪く普通の人間以上に冷笑を受けて育ってきた。そうした環境に適応するために、おそらく自分はどこかで冷笑を楽しむ術を身につけた。

ただし自分が彼らと異なっていたのは、冷笑で受けた傷を同じように別の誰かに向けて埋め合わせようとしなかったことだ。いや、昔は内心していたかもしれないが、自分は冷笑という動機よりも虚無感の方に強い動機があることに気づいた。それが明確になったのはおそらく2018年のことである。

こうした個人的な動機を分かってほしくて作品を作っているわけではない、むしろ純粋な好奇心から、虚無主義のユーモアを表現したいと思っている。なぜなら何の価値も信じられない自分には、何の価値も信じられない(あるいは、いかなる価値もくだらない)ということの滑稽さを笑う他ないからである。