人生

やっていきましょう

前提としてユーザーに課金を求めるのはサービスを維持する上で必要なことだし、またそれを進んで行っている課金者が間違っていることは決して有り得ないが、それはそれとして課金をして強くなることの何が楽しいのかという感情がある。

金をかけた分だけ上質なサービスが受けられ、結果として強くなれるということがあまりに予測できすぎてしまい、金をかけることにあまり意味を見出せない。もちろんかけた額に比例して強くなるわけではなく、そこには当然ギャンブル要素もあるが、金を持っている人間の方が当たりを引く機会が多いのは当然であり、はなから勝負して勝つ気にはなれないのである(これの風刺がやりたくて、クソゲーにわざわざギャンブル強化要素を追加した)。

むしろ無課金という足枷がある方が、あれこれ考える必要がある分面白くなると感じる。例えばMMOでは金をかければ火力が上がり、火力があるほどボス討伐が容易になる。火力は討伐時間の短縮を意味し、それはすなわちギミックに煩わされる時間も減るということである。つまり度重なる課金によって得たステータスは、ボス体験を極めてシンプルなものにしてしまう。もちろんそれは下を見ればの話であり、それほど課金してようやく挑めるボスというのも存在する。しかし自分には、そこまで金をかけなければお目にかかれないボスにそこまで関心がない。

ボスに限らず、装備を揃えるという体験も簡略化される。金があればマーケットに行ってその場で最強装備を買えば済む。金がなければ金を貯める方法の構築から始まり、そこそこ強い装備を買うか自前で強化する。ショッピングは確かに楽しいが、それは自分の有り金が少ないという制約の中で、何を買うべきかを迫られるという緊張感があるからだ。金があれば装備に迷う必要はそれほどなくなる。

しかしそれでもなお課金をする者は後を経たない。彼らの動機は一体何なのか考えた。少なくともそこには納得のいく三つの答えがあった。

ひとつは最強でありたいという欲求。誰も到達し得なかった世界に挑む。思いっきりアクセルを踏んで速度限界まで突っ走る。そこに快感を見いだすことは容易である。そのためには生半可なエンジンでは使いものにならない。すべてが最高品質で、飛び抜けていなければならない。自分のような卑しい貧乏人には到底及びもしない理想。それが彼らの動機である。

二つ目は育成したいという欲求。まるでアイドルのプロデューサーや息子を勉強漬けにさせる教育ママのように、自分のキャラクターを一から育てて最強にするという、親のような体験を求めている人間がいる。我が子のような存在にはどれだけ金を費やしても構わないと考える。それこそ親の愛、すなわち彼らの動機である。

三つめは単なる自己顕示欲。自分が金をかけて最強になると周りが一目置いてくれる。誰もが自分を頼ってくれる。自分の存在に他者が平伏しているというのは何とも味わい難い快感だ。だからこそ金を積んで自分の力に酔いしれる。

自分の関心はそのいずれの場合でもない。それが自分にとって好奇心を湧きたせる特異な体験かどうかに価値を置いている。だからもし課金によって、自分の独自性を追求できる機会が与えられるとしたらおそらく課金すると思う。だが自分の場合、その対象は外見というよりアイデアなので、課金の積極的な動機があるのは本ということになる。自分はアイデアを欲している。特異なアイデアで平凡な体験の捉え方を再構築するというのは金のかからない趣味である。

ここまで偉そうに書いてきたが、実際のところ半分は妬みだと思う。つまり自分は捻くれ者で最強を目指したい人間だが、金がなくてそれができないので不貞腐れていて、彼らのストレートさを冷笑して自己正当化しようとしているが、貧乏人の僻みとは思われたくないのでこんな日陰で言い訳を吐いているというだけのことである。自分が王道に立てない側の人間であることへの劣等感を誤魔化したくて、体験の簡略化だの捉え方の再構築だの喚いているにすぎない。

しかしあくまで半分であろうと思われる。妬みがすべてなら、恥ずかしすぎてわざわざ文章にすることもなかった。課金によって利便性を高める行為によって失われる何かがあり、通常そこには誰も見向きもしないが、意外とそこにあるものが面白いかもしれないという素朴な感情が自分の中にある。ここに自分の価値観が表れているように思う。