人生

やっていきましょう

自分が長年思ってきたこと。もし自分が物事を事細かに分解し、それらのパーツのひとつひとつを理解、認識、記憶することに全力を費やしていたらどうなっていたか。例えば医者が人体の構造のひとつひとつを漏れなく確かに記憶し診察の判断の根拠を常に明確にするように、あるいは優れた棋士が盤上の戦略に対して様々な局面とその対処法を身につけているように、物事の解像度を高い状態に保つことに腐心していたとしたら。

自分はこの種の努力を放棄している。それはもちろん惰性によるものでもあるが、何より自分のインスピレーションの足枷になることを危惧しているからだ。自分に言わせればあらゆる情報が自分の知覚の支配下にあり、それらが適切な関連と分類のもと常に整理され正しく繋がっているという状況は、自分の発想の飛躍を鈍らせるのではないかと思う。

今でも自分はそう思っている。だが以前と比べると、今はその考えが誤りであるように思えてしまう。最近の自分はインスピレーションの質が落ちてきたと感じる。それは自分のインプット量が少なく、今の自分は過去の曖昧な記憶をうっすらとなぞっているだけだからだ。

自分は自分のアイデアを見るといかに視野が狭く浅はかなことを考えているのかと恥ずかしく思う。自分の知性と知識量では何かを言及するには足りなすぎる。様々な情報が不確かに繋がっているから、ちゃんとした描写が書けない。それが不安だ。