人生

やっていきましょう

自分が社会に適応できないということ、それを克服しようと無理をした結果心が折れ人生の大部分が狂ってしまったこと、その他自身の能力の欠落から様々な苦痛がもたらされたこと、またそれらの後遺症について、自分はどう捉えるべきか。

ここで問題にしたいのは解決の話ではない。どう向き合うべきかという姿勢である。どのような解釈が自分の納得を引き出すのか。

ひとつの案は、自分自身の置かれた状況に対して深く没入することだ。自分が社会の中の異常者であるということは既に認めていることだが、その反動として自分が健常者の一員として歓迎されたいという渇きによく苛まれる(自分は孤立することを進んで望んではいない。しかし結果として孤立することになる)。

そのため、自分自身の人生を健常者の人生に「監視」させ、その域を逸脱した場合に不快感を発するようになっている(驚くべきことにこれらをすべて誰に言われるわけでもなく自分でやっている。自分は自らを健常者の都合にあわせて監督している)。

この不毛な努力の結果、自分は自分の人生を無条件に「否定されるべきもの」として捉えるようになり、健常者の人生を無条件に「肯定されるべきもの」として捉えるようになる。

例えばスポーツマンの人生がある。彼らが当然のように備えているスキルやマインドセットが自分に無いことに苛立ちを覚える。それで彼らの存在が不快の対象になる。同じようにアーティストや芸人、学者やビジネスマン、果ては知人まで、あらゆる人間が不快の対象になる。

根本的な話をすれば、自分が彼らではないことに苛立ちを覚えているのである。この見方を変える。他人と比較せず自分の人生に没頭する。自分が後ろ指を指されるような人生を歩いていようと、能力の不足ゆえに失敗を繰り返すような人生を歩んでいようと、その是非を他人の目線ではなく純粋に自分の判断に委ねる。

自分が何か感情を抱いていたり、何かの行動をしていたり、何かの考えを持っているとき、それがいかに稚拙でバカにされるようなことでも自分を否定する材料にはしない。ひとまずそれが自分から生まれた結果であることを肯定する。

その上で手を加える。不当な人生に基づく誤った推論であればそれを正し、邪推や偏見であればその過ちを認める(自分を肯定する段階で止まることは危険である。それは盲信への入り口であり、事実判断と価値判断の区別を曖昧にする)。