人生

やっていきましょう

自分と関わる人間が、自分自身で言葉を発するということに抵抗がなかったり自分自身に対して否定感情がほとんどない人間であると分かってしまうことがある。そうした時自分が異常者であり、彼らが健常者であることを思い出す。

自分では気づきにくいが、自分に対する嫌悪感や内面の問題は周囲と比べても偏っている。人と話せないことは当たり前ではなく、自分を嫌うことは当たり前ではない。自分が警戒の姿勢を見せれば見せるほど、怯えなければいけない自分が惨めになる。それでまた自己否定が始まる。

おそらく彼らはいい人たちであり、自分が心を開けばある程度はそれに応えてくれるに違いない。否定しているのは自分自身であり、すべては独り相撲である。それが分かっていながら、長年の人間不信から脱出できず警戒してしまう自分を情けなく思う。こうした呪いに束縛されない健常者を羨ましく思う。

自分は大抵の場合において理性的な人間だと思うが、ことこの問題に関しては理性的であるとはいえない。確かに恐怖心や不安やトラウマは、事実を正しく見つめようとする態度(例えば個人的な感情の解釈を減らして事実や構造、仕組みといった具体的な情報によって問題を捉えなおす態度)によってある程度は緩和されてきているが、この問題について考えると未だに自分を客観視できなくなることがある。

健常者や異常者という雑な表現をしなければならない自分も情けないが、そう言う方が自分の認識に近いからそう呼んでいる。自分と彼らの価値観は異なり、彼らは好きなものを当然のように受け入れている。自分は自分の好みなどカス同然だと思っており、自分の価値観に対する正当性はないと考えている。だから自分はいつも不安を感じなければならず、彼らはおそらく不安を感じない。そう考えると、これらの言葉は極めて感情的な表現だと思う。

自分は自分の価値観を支持する正当性を欲している。つまり敢えて宗教的に言えば信仰を求めているのだが、その信仰の核となる部分が自分は壊れている。自分が異常者だと思うのは、自分は果たして自分の価値観を本当に支持して良いのだろうか?と考えるからであり、健常者はそんなことを考える間もなく自分の好みと同居している。好みが自分の一部となって、彼らをこの世に繋ぎ止めてくれている。

自分は自己否定の勢いに任せて自殺をするのではなければ、この世に存在することを肯定する理由を自ら見つけなければならないという前提にある。だがおそらくそうした感情を抱かない人間にとっては、好みとは義務で見つけるものではなく自然と見つかるものなどと言うのだろう。

自分は自分を誤魔化すために世の中に肯定的な感情を抱こうとしている。それが自分の自殺を遅らせこの世に繋ぎ止めておく理由になると思い込んでいる。しかし自分にはこの世に対する肯定的な感情など既に消えており、自分が楽しいと思えることなど本当は何もないのである。

この何も無さを、彼らはそうだとは思わない。彼らは自分が楽しいという感情に疑念を抱いていない。だから何事も素直に楽しめている。この明確な差を、普段の自分は無意識の状態でいられている。自分も以前に比べて誤魔化しがうまくなったものだ。だがふとしたことで、自分が元々自己否定の出自から生まれた存在であることを思い出してしまう。

こうした問題に過剰に向き合ってしまうのは、やはり自分の中に何か心の拠り所が欲しいという強い衝動があるからだろう。それは人に限らず、価値観であり、信念であり、趣味であり、感情でもある。欠けた何かを埋め合わせたいという思いが、おそらく自分を安易な自殺に走らせず、醜くもがくような生存に走らせる。