人生

やっていきましょう

下山の時が来た。ここでこの3週間の自分を総括する。

自分はここで多くのことを学んだ。早寝早起き、便所掃除、ベッドメイキング、予約者のベッドの位置の設定、予約者の受付、案内、英語で説明すること、売店、配膳、道具の片付け、ゴミの分別、計量、処理、台所事情、肉体労働・・・。あるいは物事を先読みすること、迷ったり言われる前に行動すること、自分のアイデアを恐れず言うこと、何事も報告し確認すること、優先順位を立てること、その優先順位を状況に応じて柔軟に修正すること・・・。学んだことが多すぎて、ここでは語りつくせない。

3週間前、自分にはこのすべてが不可能だと思い込んでいた。それをすべてこなした。何度も失敗したし、何度もパニックに陥った。しかしそれらを突破した。ほとんどのことについて、自分はできないのではなく、やることを恐れていたということが分かった。失敗して怒られるのが恐ろしかった。しかしそんな自分の事情など汲み取る暇はなく、次から次へと問題が押し寄せてくる。そんな環境に身を置くうちに、落ち込むより失敗を次に生かすという態度を自分に強いるようになった。

本当に迷う暇がなかった。常に危機感と隣り合わせだった。朝早く起きられなかったらどうしようと考えて怖かった。だが朝は毎日来るのだった。5時30分に起きられるよう常にアラームをセットしていた。そしてその通りに起きた。いつしか朝について考えなくなった。英語が話せなかったらどうしようと考えると震えが止まらなかった。そして実際、言葉に詰まることが何度もあった。しかし外国人旅行客は日に30人は来るのだった。どれだけ自分が拒んでも外国人は来るのだった。そして自分は英語で話すことを余儀なくされた。いつしか自分は英語を話すことに抵抗がなくなった。慣れてくると質問のパターンとそれが生じるシチュエーションが分かるようになり、その度に用意した答えを言えばいいということが分かってきた。イギリス人だろうがドイツ人だろうがアラビア人だろうが中国人だろうがそれは変わらなかった。それでいつしか不安が消えた。

結局生存バイアスだということかもしれないが、他所のことよりまずは自分のことだ。この3週間で自分が絶対的な無能であるという思い込みが完全に誤りだと分かった。事実はこうだ。これまで触れることがなかった新たな業務には不安を抱く。しかしその不安は失敗を受け入れる勇気さえあれば消失し、未知なるものは経験と反復によって既知のものとなる。パターンを理解すれば何をすべきかが分かる。問題はそのパターンが複雑な場合があるということだ。しかし難問は分割せよと人は言った。自分が状況が把握できなくなったときは、どの範囲まで自分が理解していて、どこから理解ができていないかという境界線を明確にすることにした。そして未知の部分を自身の課題とし、この課題を自覚した上でバカみたいな失敗をすればいいのだった。

失敗はギャンブルそのものだ。自分は完璧ではないからギャンブルに外れることもある。だがそのハズレは実のところ再現性のあるものである。それが従来のギャンブルと違うところである。未知の領域にアクションを企てる時は完全なギャンブルだが、それが既知のものとなった瞬間(もちろんそれは状況にもよるが)いくらかの再現性が期待できる。そうして得た情報を判断材料にするという癖をつけると、自分の成功は少しづつ増えていく。

一度の経験でどれほどの情報を吸収できるかということは人による。自分は不幸にもその力が弱い。だが経験が対象に何らかの結果を返すということは万人に変わらない。理解できなければ何度も結果を出力させればいい。少なくとも今までよりはそう思えるようになった。

メモ書きについてだがやはり自分には必要だと思った。自分は情報を言語化して把握しなければより正確な理解が得られない人間である。中には身体的な経験から情報を直接吸収できる人間もいるが自分はそうではない。自分は記憶力と注意力が弱い。だから常に気がついたときに情報にアクセスできる必要があった。それは自分の予防線であると同時に、何かあればメモに戻ればいいという安心を与えるものだった(もしそれがなかったら1つの損失に対してパニックになっていたことだろう)。当然3週間も経てばメモを見なくて済むようになる。あくまでこれは初期の段階の話だ。業務に精通した熟練の人間が思う「普通レベル」に自分が短期間で到達するには、人の話を一度聞いて解するだけでは不十分だった。自分は何度もメモに助けられた。

局所解は全体の最適ではないという自分の気づきはここ最近の自分の人生の中で得た最も大きな学びのひとつだと思った。自分の都合というミクロな視点では当然重視されるべきことも、集団というマクロな視点では悪影響になることもある。例えば自分の疲労への対処法として話の輪に加わらないという行動を取った時、それが自身において適切な行動であったにせよ、マクロな視点では集団において自身の異常性を際立たせるという結果につながる。それが自分の解雇の遠因となったことは周知のことである。集団という視点で物事を考える場合、自分は彼らと協力関係にある人間であるということをアピールし続ける必要があった。社交性というのはそのために発揮される。自発的に会話に加わり、ただオウム返しをするのではなく話題を敷衍したり深堀りすることで、会話の連想を持続させる努力する必要があった。元気な時はそれができていたが、疲れていてそれができなかった。

やはり体力だ。すべての原因は自分に体力がなかったことだ。今回学んだ教訓はそれだ。自分に体力がなかったからこそ、今日下山することになった。自分はおそらく勤務態度は良好だった。嫌なことでも無理だと思ったことでも「できません」ではなく「やります」と言った。全体を通しても致命的なミスはなかった。正直うまくやっていたと思う。失敗をしても不貞腐れず、常にそこから何かを学ぼうとしていた。短絡的な他責思考に陥らず、常に自分の中に原因がないかを探っていた。そうやって自分の中にひとつひとつできることを増やしていくような人間だった。そんな自分でも、体力がなければ通用しないのである。途中でリタイアするという不名誉にあずかることになった。

自分は決意したことがある。下山したら体力をつけようと思う。これから何をするにせよ、おそらく今のままでは体力を理由に失敗することになる。当然のことながら、体力をつけることに不安や抵抗がない。だから自分はすぐに実行に移せると思う。ジムで鍛えるのが一番だと聞いたが、現時点ではそこまで求めていない。おそらく本気ではないのだろう。だがいきなりハードルを上げて三日で飽きるよりは長く続けることを想定してできる範囲から頑張った方が良いと思う。とりあえずは毎日ランニングをしたい。