人生

やっていきましょう

自分が無能であると考え始めるのは、大抵誰かの優れた部分を自分のものと比較した時のことだ。彼らの優れた記憶力、理解力、表現力、それらを前にして自分はあまりに無力だ。その時自分が感じているのは、妬ましさや悔しさというよりは自身の存在意義の欠乏である。

自分が今ここにいる必要性がない。いつもそう考える。自分がそこにいなければならない理由がない。自分はいてもいなくても良い。なのになぜまだ自分はここにいる?

おそらく自分は自分の能力が存在意義と直結していると考えている。つまり自分は能力主義を内面化していることになる。ならば話は簡単だ。存在意義の欠落を感じなくなるまで自分の能力を鍛え上げるか、能力主義を捨て去り自分の関心のみに注意を向ければいい。

自分は能力主義に従って生きることができるだろうか。能力主義には二つのものがある。他者との比較を動機づけるものと、自らとの比較を動機づけるものだ。

自分は前者の側の人間だったが、こんなものを内面化するくらいなら捨ててしまった方がいい。世の中には自分より優れた人間ばかりがいるが、いちいち彼らを比較対象にしていては必要以上に劣等感に駆られるだけだ。劣等感は自分の努力を受け身にする。本心から望んで努力をするのではなく劣等感に煽られて努力することになる。それで良くなるかといえばそんなことはなく、ますます存在意義の欠落を自覚させられることになる。

後者はまだ納得できる。自分に強い信念があり、そのために能力を鍛えようとする。比較対象は過去の自分であり、前よりも一歩先に進めれば成功と判断する。この健全な思想を自分はゲーム制作に持たせようとしているが、これにも問題がないわけではない。すなわちそれは大抵の場合において自分自身の反映にしかなり得ないということだ。自身を比較し自身を評価するのは自分自身である。自分のやり方が間違っているか、信念の偏りを自覚できるかどうかはすべて自分自身に委ねられる。たった30分しかやらなくても自分は頑張ったと思って満足してしまう時、誰がそれを指摘できるのか。

能力主義を捨てるというのはどうか。自分の能力の如何にかかわらず、別の理由を根拠に存在意義を見出す。自分の思考はいまこの状態にある。しかし問題は何に自分の存在意義を見出すかということだ。

明らかに自分はニヒリズムを内面化している。いかなる思考も自分の存在意義を満たすことに十分ではない。どれも価値観の後付けに過ぎない。しかしこの純然たる事実を指摘したところで自分の内面が救済されるわけではない。

自分の満足を求めて生きるというのはどうか。ゲームにせよ趣味にせよ、勝つことや誰かと比較することを求めず、自分が(みんなと)楽しめればそれで良いと考える。自分は心からこの境地を欲しているが、劣等感が強すぎて何事も心から楽しめない。

宗教に入るという方法もある。つまり自分自身による意味づけ/価値づけを放棄し、神や第三者による世界観を内面化するというやり方だ。これには少し納得できる。劣等感が何でもアリの非合理の産物であるならば、それを救済し得るのは何でもアリのこじつけしかない。神はあなたのすべてを見ていて、誠意と祈りによってあなたに祝福をもたらすという信仰は、少なくとも考えてどうにもならない問題から目を逸らすきっかけを与えてくれる。問題は信仰心を抱けるかということだが。

自殺という選択もある。死ねば意識が止まるから劣等感を抱かずに済む。根本的解決である。しかし死を急ぐ理由が自分にはない。自分の劣等感はそこまでまだ酷くはない。

色々考えて分かったが、自分には自分がないのだ。自分がないから何かに振り回される。自分が以前、自身の存在意義の欠落は概ね自分自身を持っていないからだという結論を出したのを思い出した。だからいかなる選択をするにせよ、まずは自分を持つということを優先的に考える必要がある。それが自分の課題だと思う。