人生

やっていきましょう

今一度、自分の作品が目指している方向性を整理する。

このゲームは自分が表現したい面白さとは何かという疑問を追求するために作られた実験的作品である。

その面白さとは攻撃的なユーモアを用いて退廃的な笑いを演出することにある。不信感、猜疑心、失望、そうした否定的感情からしか生み出せない「軽い笑い」というものがある。

この軽さをどのように表現できるかということをずっと考えてきた。ひとつ間違えれば言葉は深刻になり、作者の内面の吐露に堕する。軽すぎても中身が浅くなる。

軽い笑いというものの追求が、この数年間の自分のテーマだった。理論として到底確立できたわけではないが、近視眼的な試行錯誤の積み重ねから少なくともその方向性は見えてきている。

とはいえ自分が軽い笑いと呼ぶべきものの正体が何なのか未だに分かっていない。否定の洗練が自分の中の動機としてあり、その目的が純粋な笑いにあるという状態である。つまり自分はとにかく笑いたいのであり、それを引き出せるのが否定に基づく攻撃的なユーモアであるから創作活動をしているということだ。しかしなぜ自分がそんなものを追求しているのかが自分でも理解できない。

自己否定とは自分が傷つかないための予防線であるとよく言われる。誰かに悪口を言われて傷つくことを恐れるあまり、自分で予め自分に悪口を言うことで不意打ちを避けようとする。自分の場合は、それを笑いに変えて飲み込もうとしているように見える。

最近の自分はあらゆる否定的表現を脅威としてではなく、愉快な笑いとして捉えてしまっている。物事に深刻過ぎるのも考えものだが、自分の場合はむしろ笑いによってあらゆることを深刻に捉えられなくなってしまった。自分の中で現実感が喪失している。痛みを正視できないということだろうか。

現実感の喪失というのも、軽い笑いを語る上で外せないひとつの要素であるように思う。すべてが冗談だと思うようになると、現実は子どもの抱く空想に近くなる。意識を向けないことはそもそも存在しない。現実の複雑さは単純化され、誇張される。そうしてむしろ笑いの方にリアリティを感じるようになる。この前提が、軽い笑いの土壌となる。

自分の中でいくつかルールを定めている。そのうちのひとつは、この軽い笑いを物語のテーマにしないということだ。あくまでそれは物語に面白さを持たせる背景として扱われるべきである。さもなければ作り手自身の世を憎む感情に支配された、自己満足の冷笑をただひたすら吐くだけの作品になる。もしそんなものがあるとすれば本当につまらないと思う。

他にも自分で納得できない、笑えない表現は極力排除している。自分が自分の言葉を見て何らかの洗練されたものを感じ取れないならそれは失敗である。絶対に第三者による承認を期待しない。承認されたいと思って生まれた作品はことごとく酷い有様だった。自分は社会的成功をモチベーションにすることはない。