人生

やっていきましょう

自分は上手い絵よりも下手な絵の方に興味を持ちやすい。整った絵は見ていて面白くない。しかし下手な絵には多様な歪みがある。

画力を上げるというのはこの歪みを矯正し形を整えるということだ。それが歪みをより際立たせることになるかもしれないし、殺すことにもなるかもしれない。画力を上げることが最高善であると考えると思わぬ方向に行きがちになる。こういう時に「ワンランク上げる」以外の評価軸が持てるようになると人は自由になれる。

しかしこと文章になると、自分はこの原則を忘れがちになる。あれだけ下手な絵に寛容な自分が文章になると受け付けなくなる。上手い文章でないと気分が落ち着かない。下手な言い回しを見るとぞわぞわする。この矛盾は何か。

下手に寛容になれるのはおそらく他人事だからだろう。自分は現在一切絵を描いていないが、もし描いていたら下手な自分も絵も許せなかったに違いない。あるいは言葉による意思疎通が図れないことに最大のストレスを感じる傾向がそうさせるのだと思う。いずれにせよ、それらは自身の性格の問題なので仕方がない。またそう感じる自分を変えるべきとは考えていない。

問題は文章に対して完璧を求める時、自分がつまらなくなっているかもしれないということだ。文章の潔癖から来る完璧主義は、自分の傾向を削ぎ落とし無駄を省く。完成された表現はなるほど筋が通っているかもしれないが花がない。それが良い場合もあれば悪い場合もある。

自分がしていることを単に快/不快で判断するのではなく、どんな意味を持つのか考える必要がある。文章の無数の不愉快な形態を直視して認めることが新たな面白さの発見に繋がることもある。自分が求める面白さがくだらなさである以上、もっと視野を広げるべきである。