人生

やっていきましょう

創作の中でずっと悪口を考えている。日頃から面白い悪口にアンテナを張り、どうしたらそれに近いものが生み出せるかを試行錯誤する。その習慣から、自分は悪口を面白いものだと認識するようになっている。

しかし当たり前のことだが、そう思うのは自分であって、誰もが似た考えを持っているわけではない。この前何かの動画で「過激な暴言が苦手な方は注意してください」みたいな注意書きが表示されているのを見て、なんでそんな興の削がれることを言うんだと思ったが、そう思う自分が麻痺しているのであり、世の中には暴言に苦痛を感じる人間が一定数いるのである。そういう想像力を以前の自分は持っていたはずなのだが、最近は歯止めが効いていない。

面白い悪口を生み出すことと同様に、その悪口に歯止めをきかせることもまた重要である。常識外れのことを考える人間は非常識であるよりも常識に精通していた方が良いと言われることと同じ理屈だ。少なくともそれを笑いに置き換えるのであれば、非常識の持つ不快さを薄め、どの程度であれば笑えるラインを踏み外さないかを考える必要がある。経験上自分の悪口に酔うと面白さが薄れる。

自分は対人関係の中で、もしかしたら自分のこの性格が相手に警戒心を与えてしまっているのではないかと不安になることが多い。少なくとも相手が不快感を示し関係が破綻した経験はないのだから、おそらくは問題ないのだろう。ただ自分が創作の中で悪口を追及しているうちに、自分の中の警戒心がいつか緩んでしまうのではないかと不安になる。

例えば悪口というものは面白いものだという前提が自分の中で確立されてしまっていて、言うべきでない時と場合と状況の中でここでこの言葉を言ったら面白くなるぞという欲求に抗えなくなるかもしれない。面白いのは自分だけで、周りはちっとも面白くないだろう。あるいは自分がゲラゲラ笑う対象が品性を疑うようなものだとしたら、この人は大丈夫だろうかと思われはしないだろうか。

自分はこの不確定の根拠を持ったまま、自分の意識に上がってくる綻び以上のものをいつも警戒している。自分は悪口を好むという反社会的な性質が、無意識のうちに現れてくる可能性を無視していない。だから言葉に対して神経質になっている。良くも悪くもこの緊張が、自分の創作と人間関係に影響を与えている。

最近自分は避けられているような気がする。彼らとうまく信頼関係が築けないような気がしている。おそらく自分の不安の投影からくる妄想だろうが、もしかしたら自分が行き過ぎた言動をしていたのかもしれない。道徳についてしばらく考えてみる。