人生

やっていきましょう

創作においてリアリティを求めることがひとつの動機になっている。しかしそれを自分がそれを追求したいからというよりは、陳腐に見られることを恐れているという心理が働いていて、要するに自己防衛のためにリアリティを追及しようということになっている。

それが面白さに寄与するのであればどんどんコンプレックスを爆発させてリアリティを求めればいいが、そうでないのであれば不要だからやめろと自分に言いたい。細部まで作り込むことが単なる現実の再現であるならば自分が作る必要がない。もっと優れた作り手や機械がやるに違いない。

自分がなぜそれを表現しようとしているのかということが作り手には問われている。その問に対する答えを見つけて何を表現し何を表現しないかを選ばなければならない。

例えばもし野良犬が街を冒険して骨を集めるといった話であれば、人間や社会についての細かい設定は不要である(動物の目を通して見る人間社会みたいなものを描きたいなら別だが)。しかしリアリティという観点からすれば、動物は人間に飼育されており、住処の隣には人間がいるということになる。したがって人間についてまったく触れられていないことはおかしいということになる。

はたしてそうか。街を舞台にした野良犬同士の縄張り争いを描くだけでも話としては成立する。現実にはあり得ないからという理由で作者によって恣意的に着色されたイヌの抗争を陳腐だと評するのは想像力が足りていない。街全体から人間が突如消え去り、犬が街を徘徊するという話だって作ることができる。そんなことは現実では起こりえないが、起こりえないからといって酷い設定だと言えるのか。現実の投影でないという理由から自分の作品に負い目を抱くべきではない。

ではリアリティというものをもう少し丁寧に考えてみる。リアリティというのは、空想世界における必然を想定するということだ。例えば先の例なら、野良イヌ同士の抗争を描くなら野良犬という設定の方ではなく、抗争という舞台そのものの現実味が問題になる。勢力同士の駆け引き、仲間の裏切り、脅し、逃走劇、勢力図と各々の利害関係、そうしたものを描いてこそ味のある表現になる。もっと単純に言えば、人間が一斉に失踪した街の中で、なぜ人間が失踪したのかという答えを用意することがリアリティであると言える。

おそらく概ね間違ってはいない。だがそれはそうしたリアリティを描きたい人間が描けば良い話である。そうでなければならないと考えるとおかしなことになる。例えば人間が消えた理由を明示的に描く必要が必ずしもあるわけではない(描かない方がイヌだけにフォーカスをあてられるので良いという場合もある)。イヌの抗争だって、人間の組織のような複雑さを持たせることが唯一の答えではない。園児の喧嘩のようなものであっても構わないし、イヌが威嚇でワンワン吠えるだけという方向のリアリティもある。

要するに作り手がどの切り口から作品を作りたいかという話でしかない。当然リアリティを好む人間がいて、リアルを感じさせないものはすべてフェイクだと思うのは勝手だし、そうでなければ創作は児戯に等しいと考えるのも自由だが、そういう意見があるからといって自分の作風を自ら制限されに行くというのは少し違うと思う。自分はもっと自分の描きたいものに忠実であっていい。

さて自分の描きたいものは何かという話になる。少なくとも今回の作品においては【くだらなさ】という一点を追及することを前提としている。そのくだらなさは自分が直感的に腹から笑える(もしくはそれ相当に面白いと感じられる)ものである必要があり、誰かを笑わせてやろうとか、プレイヤーが求めている笑いはこんなものだろうといった浅はかな意図を完全に消し去ったものである必要がある。またある人物や組織、思想や考えを擁護するために別のものを蔑んだり、自分の考えを押し付けるために作られるべきものでもない。

一方でそれらをひとつにまとめあげる頑強な物語を必要としている。直感から生まれたくだらない笑いをシールのようにただ適当に貼るのではなく、そのくだらない笑いと物語がうまく話の中に適合している状態を目指す。これが本当に難しい。直感がうまくはまり込めば問題ないが、形が合わないと違和感の消化に数か月を要することになる。

だから大半の時間を自分は物語の編集に費やしているが、自分の目指すものが現実の投影ではなく直感の投影であることを忘れてはならない。編集ばかりをしていると些細な違和感にも敏感になる。リアリティがどうのという問題も、結局はこの違和感の排除という動機から生まれている。確かに編集は必要な工程ではあるけれども、それがすべてではない。自分が何を表現しようとしていたのかを意識しておく必要がある。