人生

やっていきましょう

49日目

昨日はどういうわけか眠れなかった。それで徹夜をすることになった。寝返りをうちながらずっと横になっていたらもう4時になっていた。居ても立っても居られないのでそのまま起き上がった。突然走りたくなった。腹も空いていたので数キロ先のマクドナルドで朝マックを買うことにした。数十メートル歩いたところで金がないことに気づいて家に戻った。

ふと今日が土曜日であることに気がついた。地元で朝から山歩きのイベントがある。時間は2時間後。場所はすぐ近くだ。面白そうだったので急遽そっちの方にいくことに決めた。

本来ならば絶対行かなかったと思う。とにかく朝マックを食べたかったし、眠すぎて動けるかどうかわからなかった。それに初めての参加で対人恐怖に襲われる可能性もあった。だが、自分はとにかく走らなければならないと思った。とにかくベッドから離れなければならなかった。自分は徹夜で判断力が鈍っていた。それでよくわからないまま衝動的に参加することに決めた。

集合場所に着いたのは6時30分だ。人集りができていたのですぐに分かった。自分は新入りなのでリーダー格の男に参加の意図を伝えた。自分は対人能力の無さを、コミュニケーション弱者特有のはにかみで乗り越えた。軽い顔合わせと運動のあと一斉にスタートした。

スタートしたというが、これは競争でもなんでもなく、ただひたすら歩いて山の頂上を目指すというものだ。だからそれぞれのペースで歩いて良い。トレイルランの大会を目指している人間は勢いよく走り出したし、威勢のいい人間たちは小走りで駆け上がった。最後尾の集団は常に歩いていた。老人が多かった。自分は最後尾寄りの中間といったところか。

自分はとにかく山の頂上に行かなければならないと思っていた。それでどういうわけか、自分は走り出した。とにかく不安定から逃れたいという思いだった。そういう衝動なのだ。頭が混乱していたし、よくわからない状態だった。しばらくして息切れを起こした。息が荒い。胸のあたりが痛くなった。頭がくらくらした。背中が汗で濡れていた。暑くて死にそうだった。

自分は喉が渇いたと思った。鞄を開けてコンビニで買ったボトルコーヒーを流し込んだ。そこでようやく声が出た。落ち着きを取り戻したところであたりを見渡した。いったい自分は何をやっているのか。ここはどこだ。周りは木という木で覆われた森だ。木々の間に整地された太い道がある。そのはるか先に途方もない高さまで続く階段があった。自分はようやく衝動が覚めて帰りたいという思いに襲われた。こんなところに来るべきじゃなかった。家が恋しい。はやくベッドで寝たい。帰りたい、帰りたい、帰りたい。

そう思っていたらふと周りに人がいないことに気づいた。しばらく待っていたが誰も来なかった。完全に迷った。自分が今どこにいるかわからなかった。おそらく分岐路を間違えた。3つあったが、そのうちの1つから老人がものすごい勢いで走ってきたので何も考えずに彼が来た道を選んだ。スタート時に何か説明があった気がするがとにかくまっすぐ進めば着くという忠告しか聞いていなかった。これがまずかった。

ルートを再確認した。コースは2つの山の頂上を経由して3つ目の山の頂上を目指す。自分が今いる場所は1つ目の山の頂上の名前と同じだった。看板にそう書いてあった。だからこのまま先に進んだ。おかしいと思ったのは標高が全く変わらないのと、なぜか道が元来た方角に伸びていたことだ。迂回なのだなと思いひたすら歩いていたが、それでも不思議でならなかった。いつまでこの高さを歩き続けるのか。自分は今どこに向かっているのか。

その答えはすぐに分かった。しばらく道を進み続けていたら自分は元いた分岐点に戻っていた。2つ目の分岐は1つ目の分岐とつながっていたのだ。自分は笑うしかなかった。

自分はかつて人生は前進を重ね続けていればきっといつかは報われるものだと思っていた。どの道であれ、その道を歩んでいけば必ず何かが自分を好転させてくれると思っていた。しかし実際は何も変わらず、返って以前より悪くなることがある。そして大抵そうなる場合がほとんどだ。今日の経験はそうした自分の認識を更に強化することになった。

自分はブチギレてスマートフォンを取り出しグーグルマップを立ち上げた。それでウォーキングの資料と比較して現在位置を特定した。やはり反対方向だった。3つ目の分岐だ。しかしもうどうでもよかった。自分は体の節々が痛かったし、苦しくて息もできなかったし、何より寝ていないからアンガーマネジメントが退廃的になっていて、とにかく一刻もはやく自殺しなければならないと思っていた。そこで家に帰る選択肢を断ち山の頂上を目指すことにした。自分は混乱していた。

自分が今どこに向かっているのかようやくわかった。「死」だ。人が等しく歩むべきゴールだ。人は死んで無になるのだ。無になるまでの過程を生という。自分はその生を痛みによって忘却した。そして人間が本来運命付けられている、人はいずれ崖から飛び降りることになるという前提を思い出した。

それからというもの分岐はひとつもなく山頂まで一直線だったが、自分はとにかく死ぬとか帰りたいとかを超えた、純粋な自己破壊衝動に従って機械的に前進していた。ベッドで横になりたいという思い、死ななければならないという強迫観念、ひたすら頂上を目指そうとするこだわり、これらは別々の問題だったけれど、共通して不安定な精神状態に対して心の平穏を求める限りなく純粋な動機であるということは自覚してていた。

随分と長い間急な坂道と岩場を歩いてきた。また喉が渇いた。自分はペットボトルの中身を確認した。もう水がほとんどない、腹をくくってもっと死に近づくかと思った。でも自分は死なずに済んだ。目の前には東屋があった。やっと休める。しかしそこには人がいなかった。まだここはゴールではない。経過地点のひとつに過ぎないのだ。自分は東屋に取り付けられた団扇を首元に扇いだ。夏だ。世間はもう夏なのだ。自分の価値観が崩壊し、自分の中の当たり前が全く分からなくなり全てが溶けるような思いだったあの春はもう終わったのだ。もうすぐ秋だ。そして冬の季節がやってくる。季節が変わるように自分も変わりつつある。自分は立ち上がった。団扇を柱に戻し、最後の岩場を突き進んだ。

頂上はすぐ近くであっけなかった。人集りができていたのですぐに分かった。彼らは自分よりも後から来た最後尾の人たちだった。まるで水戸黄門のテーマソングみたいだった。自分は丸太に腰をかけ残りの水を全部飲んだ。

ふと自分は奥の方に目をやった。まだ道は続いている。地図によればそれは湖に繋がっていた。後々家族に聞いた話なのだが、トレイルランをやるような人間は、あの先の湖を目指し、ぐるっと一周回って今まで来た道を戻るという。自分は湖なんかクソくらえと思った。

とはいえこのことは重要なことのように思われた。すべての道は常にひとつの経過地点でしかない。どれだけ前進し続けたところで絶対的なゴールには至らない。ここがゴールであると言える根拠はどこにもない。誰かが勝手にそう言っただけだ。ゴールと冠するあらゆる地点はすべていかがわしい誇張であり、結局それらは無意味であるかもしれない。しかしそれでも尚、どこをゴールとするかは自分で決められる。規定のゴールはこの頂上だが、もっと先に進んでいくことだってできる。頂上を目指す過程で戻ることだってできる。そもそも山に行かずに軽く負荷をかけてマックに行くのであっても良かったし、ずっと家にいて外に出ないのであっても良かった。

自己破壊衝動に頼るのではなく、自分の意思で何かを決断すべきだった。コントロールできないものでなく、コントロールできる範囲で行動するべきだった。暴走するのはよくない。世の中コントロールできないことがほとんどだが、選べる選択肢というのもあるのだ。自分のゴールはここだ。先もあるが、自分はここで引き換えす。ここが所定のゴールだからだ。今日はこれで終わりだ。帰りは適切な判断に従って山を下った。家に帰ったらシャワーを浴びてぐっすり寝た。