人生

やっていきましょう

240日目

習慣5日目。精神の不調に至ることもなく、いつも通りの日課をこなすことができた。こういう日は珍しい。今後の模範にしたい。

今日の運動は負荷をかけすぎた。急いですべてをこなそうとして、まず先に外をランニングしてから、帰ってすぐに筋トレを2周した。気づいたことだが、運動の負荷はランニングよりも筋トレの方が大きいようだ。いつも通り後にランニングをした方が都合が良いだろう。だが今回は先にランニングを行った。休憩を挟まずに腕立て等を繰り返したため、腕に力が入らなくなった。意識が朦朧としたまま風呂につかり、疲れを癒した。気分の不調を挟む隙がない。

ランニングに変化があった。いつもコンビニまで坂を上り川の土手沿いを休まず走るのだが、バテるポイントというのが大体決まっており、そこでいつも息が切れる。だが5日間繰り返していくうちに、無理すれば多少はまだ頑張れるという余裕があることに気づいた。そこで微妙な距離だが無理して頑張るということを繰り返した結果、僅かに息切れを起こすポイントが伸びていることに気づいた。これは進歩だ。

ランニングはリズムでごまかすのが良いということにも気づいた。ただ苦しい、つらいという思いで走るのではなく、タン、タン、タンと何かのリズムや曲にあわせて歩調を整えた方が疲れを感じにくい。遅い曲よりは速い曲がいい。そうすることを意識的に取り入れた。そしたらうまくいった。

ランニングの最中、ふと昔見たアニメのことを思い出した。巨人の星という自分の世代よりひとつふたつ前のアニメだ。このアニメの主題歌が有名だ。「思いこんだら試練の道を行くが男の ど根性」この歌詞だけでもこのアニメの様相が何となく掴める。要は努力至上主義のアニメで親父の星一徹が息子の飛雄馬に対して努力の前には甘さを捨てろということを延々と訴えかける話だ。息子に強制ギプスや千本ノックを繰り返すという、現代では到底考えられないことをやってのける。

もし自分がそのような仕打ちを小さい頃から受けていれば、どこかで心を壊して引きこもっていただろう。だがなぜか、自分はこのアニメを毛嫌いせず全部見ることになった。むしろ自分は、このアニメに励まされていた。当時自分がこのアニメを見ていたのは中学3年のころ、毎日7時頃から淡々とやっていて、ちょうど終わるのが高校受験間際だった。自分は巨人の星を見て受験に対して自分の心を奮い立たせていた(およそ平成的ではない)。

今となって見えてきたことだが、自分が自分の精神を追い込む様子は、一徹が飛雄馬を追い込む様子と似たようなものだった。自分の中の一徹が自分を極限まで追い込もうとし、一方で自分の中の飛雄馬がその絶望的な圧に応えようとしたり、あるいはそうである自分に疑念を抱いていた。だから自分にとって努力至上主義は結構身近な概念になっている(これは本心で望んでいることではない。強迫的な不安からそうせざるを得ない)。

だが自分はそこまで最適な解を導いてきたわけではない。何をどうしたらいいか分からないまま、がむしゃらに突っ走ってきた。頭を使わず、努力で無理を通してきた。中学のブラックな部活も、高校受験も、大学受験も、その先の答えの無い精神の葛藤・不安についても、やはり同じように努力してきた(あまり美化してはいけないので実際のことを言うと、自分はギリギリまで怠けていて、危機感を覚えたら一徹と飛雄馬の関係になるというようなことがよくあった)。

そういう苦労・心労を美化する憧憬として、巨人の星は一役買っている。だから自分がランニングで自分を追い込んでいた時、オープニングで流れる一徹と飛雄馬がランニングする場面を自分に照らし合わせた。誰も肯定してくれない自分のストイックな闘いを、ここだけは分かってくれているという思いにふと駆られる。

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無論これはかつての話だ。今は違う。こうした努力信仰はブラック系の基本理念になりかねないし、現状認識そのものを危うくする。努力という非効率な総当たりで消耗するよりは、効率的な運用によって手軽に問題を解決した方が良い。できるならそうした方が良いに決まっている。ここは頭の使いどころだ。賢く生きた方がいい。

だが自分のアイデンティティを内省すると、スキルを洗練してスマートに生きるというよりは苦渋の忍耐に自分を見出す。どれだけ非効率だろうが自分は頑張ってきたということをどうにか肯定されたい。それゆえに自分は救われるという信仰に漬かりたいという衝動は発作的に現れる(こうした衝動が自分を山や旅に駆り立てたり、現に難しい物事に挑戦する動機の一部になっている)。

事実は明らかにそうではない。自分はがむしゃらな努力では救われない。かつて成功したこともある。だが自分は今がむしゃらな努力の必然として、方向性の欠落ゆえに挫折した。巨人の星に懐古的な愛着を持とうが、それはもはや時代錯誤でしかない。価値の復権など望んでいない。がむしゃらに努力する以上に効率的な方法を取る必要がある。

このことを痛切に感じたのは、自分より優秀な人間が世の中には大勢いるからだ。身近なら例を見る限り、彼らは何も考えずがむしゃらに努力してきたわけではない。方向性を自らの頭で考え、あるいは積極的に外注しながら努力しているのだ。目指すべき目標の最短ルートを手を替え品を替え見つけ出そうとしている。

ところで最近クイズにはまっている。以前どこかで述べた通り、クイズを取り組む姿勢にはいろいろ学ぶことがあった。今日は知人に誘われてクイズ番組を見ることになった。頭脳王という番組だ。そこに出場しているのは東大医学部や京大医学部といった秀才たちで、皆が簡単に解けないような難問に対して彼らは平然と答えていった。

ここでクイズについて考えるつもりはない(正直なところ、自分は部分点を除き2問しか答えられずお手上げだった)。考えたいのはクイズに答える彼らの姿勢だ。彼らの解の導き方について注目していたのだが、思考の無駄がほとんど無いということに気が付いた。知識が最適に関連付けられていて圧縮されていた。

アナウンサーが彼らになぜそうだと思ったのかと問いかけたとき、彼らは迷わず簡潔に根拠を述べる。一見する限り、誰かにこう思われたらどうしようとか、もし自分が間違っていたらどうしよう、大局的に見れば正しくても、部分で致命的な間違いを犯していたらどうしようという不安を感じさせるものはまったくなかった。

そう考えてみると自分の思考は無駄が多すぎる。例えば何か難しい問題が出たときに「うわーっなんだこれ(いつものバラエティ番組で見るやつとは全然ちがうぞ)、こんなのどうやって解けばいいんだろう、あっ、なんか数字や公式が条件として出されたぞ、こんなのわかるわけない」というように自分はまず面食らう(これはリアクション芸人が演じ、テレビ局が想定している一般的な視聴者像だ)。

しかしクイズに出ている人間は面食らわずにすぐに回答を始める。問題で何が求められているかだけを考え、それを解決するためにはどうすればいいかを考えることだけに集中する。これは当然といえば当然だ。面食らう時間が無駄だからだ。それよりも1秒でも多く問題を考えることに時間を使ったほうがいい。

こうした発想はがむしゃらな努力からは生まれない。偶然的に見出だされることもあるだろうが、少なくともその信奉にあっては難しいように思う。がむしゃらな努力は方向性を見失ったエネルギーの放出に近く、目的を達成することには向いていない。また自分は不安や恐怖を感じやすく、そこでもエネルギーが無駄に浪費されている。自分を慰め、納得させ、安心させようとすることに足を取られている。それが無駄だ。目的と手段をはっきりさせ、そのことだけに注力したほうがいい。

自分の不安の原因はだいたいわかっている。不安の大半は他者からの視線、自分の間違いに対する恐怖、不適格な偏見や無理解に対する恐れで占められている。真に問題解決を第一優先事項にするのであれば、これらの不安は遮断する必要がある。だがそれがなかなか難しい。生まれ持ったものなのか、環境によってそう歪められたものであるのかは知らないが、自分の心は容易に変えられない。だがこれらは部分的には修正できる。

がむしゃらな努力の励まし以上に、今は方向性のブレない合理的なプロセスに励まされる。アイデンティティとして自覚するのはがむしゃらな努力だ。だが自分はそれで一度死んでいる。今は生まれ変わったような気持ちで、考えながら努力する術を学ぼうとしている。一に自信、二に方法だ。そういうわけで知的に試行錯誤する人間を広く参考にしている。

 だが今日はふと、自分がかつて思い描いていた、努力は必ず報われるという「世界公正仮説」に対する素朴な信頼を思い出していた。それゆえ努力を妄信し、しかし方向性が見当たらず、それでもどうにかしようとしてがむしゃらに頑張っていたことを思い出した。明らかに自分はそこから生まれ出たけれども、今はもはやそうなれないということに気づいた。今日はそのことを記録に残したかった。