人生

やっていきましょう

425日目

思考の情報量を減らし続けていると、不安は少なくなったが咄嗟の判断が狂いやすくなるということが分かった。今までは思考の情報量に助けられて後から目的の方向をじわじわと認識すれば良かったが、思考を遮断した状態だと身軽に動ける傍ら情報量に限りがあるので、雑な認識だけが浮上してくる。

ひどく雑な認識を山のように積み上げて混沌状態にし、それらの中で最も有力な情報をフィルタリングして組み合わせていたのが自分だった。だから思考の量を単に減らしただけでは雑な認識だけが浮かんでくる。アイデア獲得法としてはこれでも良いだろうが、これ1本で生きていくには難しい。

理想としては、情報を過度に言語化することなく最低限の情報量で適切な判断を下し、意識のゆとりを確保した状態で自分の関心や感情を養えることが望ましい。だがそうするにはどうすればいいか。

結論から言うと実践を積み重ねるしかない。言葉と思考の混沌状態は、初めて取り組む問題、成功がなかなか見込めない問題に対する不安を主要な原動力として過度に働いた。その結果、実践していない自分でも圧倒的な情報量を参考にすれば最低限は外れない「だろう」というマニュアルを自分の中に生み出した。だがそれは合理的な目的意識で獲得された情報ではなく、不安という不合理な動機から手当たり次第に獲得されたものであるから、無駄が多く、それが何に活かせるかという答えがまったく設定されていない。

無駄の多い言語化に頼らず、最低限の情報量で先述の理想を実現するには実践を積み重ねることが重要だ。実践はその結果として無駄を削ぎ落とし素早く目標に辿り着くことを目的としている。自分は明らかに、未経験の新入社員に膨大なマニュアルを手渡されただけの状態であると言っていい。マニュアル通りに対応すればまず外れることはないだろうが、膨大な無駄の中から情報を探索するという余分な労力とストレスを人一倍自分に課すことになる。

優れた演奏家は楽譜を見ることなく演奏することがある。これは実践によって培われたものだ。マニュアルを見ながら問題に取り組むということは相当な手間であり、ほとんど慣れてくると無い方がやりやすくなる。意識を目の前の作業に集中できるからだ。

絶え間ない実践の連続によって思考の無駄が削ぎ落とされ余力を生まれる。この余力が自らの集中に投じられたとき、本領が発揮されるような気がする。自分は明らかに余力を集中のためではなく不安解消のために浪費してきた。しかし不安は一向に減ることなく、むしろまったく集中できず何もうまくいかないので不安が余計に増大する結果となった。だから実践を積み重ねる。それが結果的には長期的な精神の安定に繋がると思う。