人生

やっていきましょう

371日目

先日から距離を増やしてランニングをしているが、体力の消耗具合を見るだけでも、それが1日の精神の安定に適した習慣であるということがよくわかる。肉体的な疲労というのは、過去に対する後悔と将来への不安の間を行きつ戻りつしていた思考をなかば強制的に今この瞬間へと引き戻す力がある。今ここで感じている疲労以外がすべてがどうでもよくなる。とにかく風呂に入って休むことだけができればいい。

今日はずっと走っていたが、後半から脇腹が痛くなってきたので歩くことにした。日が長いので19時頃に出歩いてもまだ明るい。歩いていると下校中の学生が歩いてきたりコンビニで屯しているのを見た。同類を見るような目で眺めていたが、彼らには未来があって自分にはないということを思ってしまい、あまり直視できなかった。

歩いている途中、こうした活動をしている自分の貧しさについて考えてしまった。家から外に出て遠くの知っている場所まで歩く。着いたら休んで100円くらいの飲み物でも買って気分を良くする。終わったらもと来た道を帰る。家に着いたら風呂に入ってそのまま休む。それだけでどうでもよくなるが、振り返ればあまりに簡素であっけない。

もっと充実した1日を送っている人がいて、彼らからすれば体力を無駄に浪費した末の100円ぽっちの幸せなんだろうかと思ってしまう。だがそれも今はどうでもいい。運動をすることで多少は心が軽くなる。それは自分にとっての事実であり、つまらない意地で否定すべきものでもない。

そう思えば、他人の視線や評価に打ち勝った数少ない趣味のひとつが歩くということなのかもしれない。別にそれほどここから自尊の源泉を見いだせるわけではないが、疲れて不安が鈍るまで取り組めるものといえばこれくらいしかない。

ランニングはまだ続ける。これからは不安になりそうになったらどこか遠くへ行こうと思う。