人生

やっていきましょう

停滞気味の部分が完成し、ようやく軌道に乗った気がする。今作っている部分は既に骨組みが完成していて、後は肉付けをどうすればいいかだけを考えればいい。気楽にできる。

この辺りの展開は正直4章の中でも面白い方だと思うが、端から見てどうなのかは分からない。自分がゲーム全体を通じて意識しているのは言葉をどこまで劣悪にできるかということだが、こうした劣悪さを面白いと思えない人もいるだろう。彼らには申し訳ないことをしている。

とにかく面白い罵倒とはいかにして生み出せるかということを腐心している。暴言というのは際どいもので一歩間違えば警戒心や恐れが上回って笑えなくなる。例えば誰かの大事にしている価値観をひたすらストレートに否定し続けるという暴言は面白さよりも苦しさがある。かといって毒のない笑いというのも微妙なものになる。作品を構築する立場の優位性から作者の好みや感情を権威付けする類の暴言も笑えない。汎用性のある暴言というのも飽きが出る。奇を衒ったような罵倒は後々寒くなる。

まず第一条件に自分が腹の底から笑えるかというものがある。本当に面白いネタは数年前のものでも通用する。ただそれは必ずしも倫理的であったり適切に配慮されたものではない。あくまで自分が笑えるかという点において厳選されたもので、その対象は恣意的であったりする。

自分は道徳的立場から極めて冷静に笑える暴言を審査しているが、自分の直感を眺めると手放しに信用すべきものではないということを確信できる。というのも、自分の直感は反社会的な笑いを心の底から笑えるものと評価することが少なくないからだ。

だから自分の笑いを「一線を越えない」ものにする理性の歯止めが必要になる。これが第二の条件だ。この一線というのは極めて主観的だが、自らの悪意が笑いへの希求心に勝るところのボーダーラインであると考えている。ここを明らかに超えると面白くなくなる。だがグレーに踏み込むと際どいものが生まれる。

このグレーゾーンへの接近を恐れてはならない。笑いが興ざめに変わるところの分水嶺を目指し、すべては笑える冗談だと言い張る。グロテスクなものを目指すがグロテスクにはならない。下品を目指しつつも下品にならない。人格否定を目指しても、本当の悪意は持たない。

ところで一番攻めた笑いというのは、自分が過去に嫌な思いをしたことや現時点で深刻に悩んでいる問題を直接ネタにしようとすることだ。対象をはっきりと客観視できていないので、常に感情と笑いのせめぎ合いになる。一歩間違えれば自虐となり憐憫が漂う。だがその香りを残しつつも腹の底から笑える瞬間がある。この一瞬を抽出し笑いに転ずる。