人生

やっていきましょう

501日目

数年前に作った笑いのシーンを見直した。粗削りではあったがつまらないものではなかった。今の自分にはない勢いがあり、同じようには書けないだろうと思った。

自分は笑いについて一切書くことができなくなっているということに気づいた。笑いを表現するということがどういうことなのか分からなくなってしまっている。不安に駆られていたのはあの頃も同じはずだったが、今と異なるのは笑いというものを強迫的に価値づけしていた点にある。

今では信じられないかもしれないが、自分は笑いというものをある時期まで崇拝すらしていた。自分の精神の安定が失われすべてが狂い始めたとき、なぜか自分には笑いというものがことさら重要であるように思われていた。自分の中で笑いが成立するとき、自分の心は安堵した。それでとにかく面白さを追求して自分で笑おうとしていた。

そこまで離れていない過去のことだが、今ではまったく笑いというものを生み出すことができなくなっている。今の自分が何を表現しても自らの空虚さ以外を感じ取ることができない。表現は本来、作者の現状と独立な関係であってもよいはずだが、読み手が自分自身である場合は否が応でも自らの現状を引き合いに出してしまう。極度のストレスが原因であることは言うまでもない。自分はもう笑いを生み出すことができない。

ところで以前も書いたことだが、違和感を排除するために過去のセリフを過剰に修正しすぎると、元々持っていた自分の味が薄れてしまう。だから今回扱ったシーンでは、6割程度はそのままの形で継承し、残りの4割程度を違和感の修正にあてることにした。修正は当時の自分が想定していた笑いの方向性をより生かすようにした。冗長な部分はカットし、表現の可読性を増やした。

それでもまだ違和感は大きく残っているが、これで良かったと思う。違和感というのは、笑いの感性が死んだ今の自分から見て感じる違和感であるという点に注意しておきたい。当然笑いの要素を極力カットしようとするだろうし、そうなると台詞としては面白くない。だから笑いと向き合うときは、かつての自分であればどうしたかという視点が重要になる。