人生

やっていきましょう

物事を切り分け整理し、記憶しパターンを抽出して自分のものにする。それらを応用して自分の関心に活かす。おそらく賢い人間はそのように生きている。

自分はそうではない。物事を理解する能力がない。そもそも物事を知らない。覚えてもすぐに忘れる。自分のような人間を無能というのだろう。

ところでこうした無能であることを自分は敢えて選んでいる節がある。易きに流れているだけかもしれないが、実をいうとバカのままでいる方がよっぽど楽しいと感じることが多い。

確かに賢い人間のように、無駄のない知覚を目指すことはできるかもしれない。しかしそこに自分の好奇心や楽しいという感情があるのかといえば疑問だ。自分の中に作られた再現性というのは初めてそれに出会った時の好奇心というものを殺してしまう。何度も反復していくうちにそれはパターンのひとつになり、あれだけ楽しかったこともただの作業になってしまう。

そうして死んでいった関心を見るとやるせない思いを抱く。だから自分は対象を自身の中でパターン化させないという努力をひそかに行ってきた。

今になって思えばバカがバカのままでいることには感情的な満足以上の何のメリットもなかった。仮にすべてを投げ出して念願のバカになったとしても、視野狭窄で感情的で、攻撃的で、論理の破綻した人間にしかなれず、そのことが自分に与える不幸について考えると、自分は完全にバカになってはならないと思うのである。

つまり、いずれにせよ何らかの努力は要る。知性に対する反動的な価値観を有していることは、そのためにただちに知性を蔑ろにしなければならないということではない。価値観は価値観として自覚しておき、それはそれとして何らかの要求水準を満たし続けることもまた重要である。

例えば道徳。いかに自分が【他人に迷惑をかけてはならない】という自身に課した鉄則によって苦しみに苛まれていようとも、またそのために他人に迷惑をかけることに憧れを抱いていたとしても、他人に迷惑をかけないことで彼らが自分に向けている人としての信頼を見落としてはならない。この信頼によって自分は害のない人間として認識され、それが自分の最低限の社会への適応を可能にしている。

ゲーム制作についても言える。いくらバカゲーを作るつもりでいても、論理的なアルゴリズムを敷かなければゲームは動かない。自分も同じようにバカになっていたら質の悪いものしか生まれない。

この両立が難しい。バカな自分を解放することで感情的には気分が良くなる。しかしそれにより、バカを擬装してきたことで実現できていたことができなくなる。

やはりバカになるかならないかの2択で考えるのではなく、この時この場面ではバカになり、この状況では真剣になるとメリハリをつける必要がある。賢くバカをやるというのは一見して矛盾しているが問題を起こさないためには大事なことだと思う。

自分は賢い人間の、興味を惹かない堅実なやり方を模倣する必要がある。彼らがどのように効率的に動き、整理された理解のもとで思索を行っているかを学習するのだ。それは地味な作業だが自分にとっては重要なことだ。無駄が多いとどうでもいいことに振り回され、バカをやっていく余裕がなくなるからだ。

賢い人間はやらなくて済むことをやらないでいられるように工夫する。彼らはそこから生まれた余白を更なる前進と適応、効率化に投じるだろうが、自分はその余白をバカになるために使う。