人生

やっていきましょう

年上の人間がいるとつい配慮してしまう。例えばそれは文化的な価値観にも影響が出てくる。家族の会話の中で親世代の話が出てくる。彼らが若い頃に親しんだ文化だ。それは自分とはまったく関係のないものだが、自分はそれを(歴史を見るようなまなざしで)敬意をもって受け止める。彼らは当然のようにそれを語る。だが自分は同じようにそれらを見ることができない。

こうした配慮によって自分の内側に築かれた偽の文化は、確かに自分という人間を形成するひとつの要素にはなったけれども、それが自分に根差したものであるという信頼感、言うならば自分の文化であるという確信を持たせるには十分ではなかった。自分のもののようで自分のものではない。どこか浮ついている。

自分という支柱を確立せずに受け身のまま自分に流れ着いた文化はこれだけではない。最も顕著な例を挙げるなら英語というものがある。自分は英語が嫌いだった。良く分からないし覚えられない。しかし嫌悪が高じるあまり、嫌悪そのものを克服しなければならないと考えた。とにかく劣等感が酷く、英語を話せるというだけで重宝される人間というのが恨めしかった。

自分は英語を克服しようとした。その結果、英語は思った以上に自分に浸透した。それは実用的にという話ではなく、自分自身の価値観に強い影響を与えたということである。今現在の自分の文化を語るとすれば、半分は英語圏のものに由来する。そこに故郷を感じるということである。しかしやはりそれらも浮ついている。故郷のようで故郷でない。最も愛着のあるものでさえ、自分の居場所だという確信が持てない。

いったい何であれば、自分のものだという確信が持てるのか。自分は日本人だが、日本の良き文化を受け入れることで、自分が誇りある日本国民の一員であるという自覚を持つことができるのか。確かに日本の文化には優れたものが多いけれど、別にだからといって自分が良くも悪くもならないというのが実感だ。

今やっているオンラインゲームはもう十何年も続けている。だがこのゲームに自分の居場所があるかといえばそんなものはない。かつてそれに近いものはあったが、いつの間にか消えていた。長い間やっているが、やはり自分の文化だとは思えない。

クラシックやミニマル音楽が自分に与えた影響は大きい。しかしだからといって自分の居場所となるかと言われれば嘘になる。音楽は自分を覆いつくすという点で最も自分の居場所に近いものだが、それが自分の居場所だと思えた試しはない。

これらの断片を抱えて自分の心の中に居場所を作ろうとしている。しかしこの断片を自分に関連付けることができない。なぜなら自分がないからである。こうやって語っていけばいくほど、その言葉が滑稽に映る。自分はこれが面白いと思うとか、ハマっているというのを文字にするほど、その本心はいっそう違和感を募らせる。

これは文化というよりは、受け入れる自分の方に問題がある。自分は自分が素直に物事を好きか嫌いかで受け止めることを拒絶している。そういう感情を抱いたことで過去に散々嫌な思いをしているからだろう(自分が面白いと思ったものを否定された過去というのは今でも覚えている)。

世の中には自己と他者が衝突したときに自己を優先できる人間というのが一定数存在するが、不幸なことに自分はその種の人間ではなかった。他者を恐れ、ただ受け止めることしかできなかった自分の弱さが、今の自分を形成している。

人は自分自身を、その文化をどのように受容していくのか。自分にはまったく想像がつかない。自分は自分を否定して生きており、その延長がどこに向かうか分からないまま漠然とした不安を抱いている。

そこまで高度な話ではないと思う。自分自身の在り方が、他者との関わり合いの中で肯定されてきた。それが維持され強化されて、自分はおかしな人間ではないという認識に達する。そうやって共感の輪の中で自己を確かめ合う機会に恵まれていれば、自分も自分を受け入れられたのだろうか。

少なくとも今の自分は孤立していて、それによって生じた異質さを隠蔽することしか頭にない。そうやってまた自分を偽って、他人に寄り添おうとする。同じことを何度も繰り返している。