人生

やっていきましょう

他人からの評価を気にしすぎていて、否定的なフィードバックが返ってくると(あるいはそうなるだろうと予測できるだけでも)自分の全人格が否定されたように感じる。だから常に他人の顔色を窺うしかできなくなり、何も行動することができなくなる。場数を踏めず失敗と成功体験の蓄積が足りなくなり、自分の行動の結果がどうなるのか体感として予測できなくなる。そんな状況でヤケになって行動に移したところで失敗するに決まっている。しかし自分はその失敗に心がひどく傷つき、やっぱり行動するんじゃなかったと思ってふさぎ込む。

自分の問題点は、自分自身の存在価値の保証を外部に委ねてしまっているところにある。他人が自分を肯定してくれないと自分の存在価値が無いように思うのである。なぜなら自分には信念がなく、自分の価値観と言えるものもない。自分の存在意義を自分の言葉で規定することができていないからだ。

いくつか修正すべき点があるが、まず他者が自分にとって都合の良い存在であることを求めるべきではない。自分は相手に自分のすべてを理解して貰える(でなければ困る)という期待を暗に寄せており、そうでないことが分かると異質な存在として認識しはじめ、相手を恐怖や不安、怒りの対象として見るようになる。それが問題である。

他者は自分のために生きているわけではない。相手は基本的に自身のために生きている。それが自分に利する場合もあれば不幸を与える場合もある。ただそれだけである。

他者が自分の都合に合わせてくれると期待してはならない。彼らがこちらに有利な評価を下してくれると思ってはならない。しかしそのことが、ただちに自分自身の存在価値を否定する理由にはならない。相手が自分にとって不都合であるということは、互いの利害や関心がたまたま嚙み合わなかったというだけである。そこに相手は自分のことを嫌っているだとか、誤解されるだとかいう余計な解釈を付けているのは自分である。

他人の内面に踏み込んで「こう思っているかもしれない」と考えるのをやめれば、そうならないで欲しいという期待を抱く必要がない。相手が自分をどう思っていようが行動の主体は自分であり、自分の決定権は自分にある。この認識が他者を克服する上で重要であると思う。

それができたら次は失敗である。自分の場合、他人に対する恐れからそのまま失敗に対する恐れが生じたと考えられる(とは言うものの、実際怒られてみれば怒られたという事実と多少の不快感が発生しただけであり、より厳密に言うなら不条理なことで怒られることへの恐怖だろう)。

自分は失敗というものを人格否定の材料と考える節がある。しかし失敗というのは自分に与えられたひとつの機会である。なぜこうなったのかを考えるいいきっかけになる。そこから打開の道筋が見えてくるかもしれない。

対人恐怖に振り回されることの無駄はここに集約されていると言っていい。相手がどうということで頭がいっぱいになり目の前の改善点が見えていないことが問題なのだ。どこの誰かではなく目の前の問題に集中すること。そして失敗を恐れずに何度もトライすること。そうやって失敗を積み重ねていく中で当たりを掴んでいき、成功を再現する。そうすることが重要なのであって相手の存在は問題ではない。

対人不安を抱く身としては、つい自分の感情に従った物言いを言いたくなることもあるが、相手からすれば勝手に脅威を抱いているのは自分であって、おそらくそれは不条理に映るだろう。そう考えるとまずは自分の方から改善した方がいいと思う。