人生

やっていきましょう

ある言葉を受けて「私は傷つきました」と答える人がいる。おそらくそうなのだろうと思う一方、どの程度傷ついたんだろうと思う自分がいる。傷ついたという言葉の価値が次第に高くなりつつあることを自分は感じているし、言ってしまえば実際感じていた傷の痛みよりも自分を大きく見せることができる。

もっとも傷ついた本人にしか分からない痛みというものがあるだろうし、そのすべてが嘘であるとも言い難い。自分も傷を受けた人間として、それが苦しいものであったということを強く訴えたくなる気持ちがあるというのは分かる。しかしその言葉は果たしてどこまで適切に実情を述べられているのか。

言葉というものは表現の媒体であって、それをどのように使うかは使い手に委ねられている。自分が言葉を感情的に述べている時、感情を強化する方向に言葉が吸い寄せられていく。より感情的に(誤解を恐れず言えばより誇大的に)物事を捉えがちな自分がいる。一方状況を判断しようとする時、自分の感情を切り離して冷静になろうとし、あるいは解釈を排し事実のみを述べようとする。どちらも言葉を扱っていることには変わりないが、やはり自分が言葉を使って何をしようとしているのかで全然事情は変わってくる。

昔何かの本(確か文化人類学だったか)で読んだ記憶があるが、自分がある集団に対してインタビューを行おうとする時、その集団の人間にどれほど寄り添うべきなのか、つまりその人の言葉をどれだけ信用していいのかということが問題になっていた。

ここでは二つの立場が考えられる。ひとつはその集団の言葉に寄り添って、彼らの言葉をそのまま伝えようとすること。彼らの戦いと痛みの歴史、あるいはその集団としてのアイデンティティに根付いた生の言葉、それを伝達することにこそ価値があるのであり、そのためにインタビューを行うべきだという立場だ。

もうひとつは自分が部外者として一定の距離を保ち続け、彼らの言葉を彼らの感情とは少し離れた事実と情報から読み取っていこうとする立場である。例えば彼らがある別の集団に対して強い嫌悪の情を抱いていたとしたら、彼らの言葉には相手の集団への正しくない偏見が含まれている場合がある。この正誤を測るには相互の関係を内側からではなく外側から観察する必要がある。

どちらが正しく適切か、ということを言うのは難しい。ある傷ついた人がその苦しみを訴えたいと思うとき、客観的事実からでは伝えきれないものがある。傷を受けた人から生まれる叫びは、仮にそれが誇張的であるにせよそうならざるを得ない必然によって発せられている。この声を不適切だと一蹴し冷笑するのは容易いが、その歪んだ言葉が同じ経験をした人間の痛みを代弁し、彼らの心を救うことさえある。

一方その傷を受けたことによる激情が、必ずしも解決に至らないというのも事実である。痛みの声というのは慰めにはなるだろうし、それは必要なことではあるだろうけれども、やはりどこかで事実というものと向き合うことが重要になってくると自分は考える。

例えば自分は対人恐怖症だから誰かと積極的に関わろうとはしていない。この恐怖を正当化する言葉はいくらでも思いつくし、実際そうすべきだと思うことができるが、しかしそれはそれとして自分が他人と関わらなかったということが、自分の対人恐怖症を維持/促進し続けることに繋がっているし、単純に経験不足からもたらされる外れの行動を引き起こしやすい状態にあるということもまた事実である。

この時、慰めの言葉は無力である。意味を持つのは、自分が何を選択しどう改善していくかということになる。自分が他者対して適応する努力をしなければ、いつまでも自分はそのままの状態にある。これが痛みを持つ人間にとってどれほど残酷な事実であるかは分からないが、しかしこの事実と向き合い自分を改善していく視点というのはいつだって必要になってくる。

どちらが正しいというわけではない。重要なのは自分がいまどちらを選択しているかを自覚するところにある(この「自覚」という視点を持とうとする点で自分はやはり後者の側の人間なのだろう)。自分がもし痛みを覚えていて苦しみを吐き出そうとしているとき、自分がいまそういう状態にあるという自覚があると、自分の感情を正確に描写しようと努めることができる。

昔はそれができなかったから、自分の内面を語るときに使う言葉は感情的に誇張された表現ばかりだった。それを後から見直してみると恥ずかしい気分になる。自分はその気恥ずかしさを味わうのが苦痛だった。だから自分は自分と向き合うとき、より正確さを求めようとするのだろう。